[21世紀初頭のスローガン:image]
→ I MISS MY PRE-INTERNET BRAIN:
Slogans for the Early 21st Century
Douglas Coupland 2012
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外つ国(とつくに)のことばで書かれたものを読むのが嫌いではなかった・・・
知らないことばに出会う。
辞書で調べてもしっくりこない。
文章全体を反芻(はんすう)して、いろいろ想像してみる。
それらしき母国語が思い浮かんだときのうれしさはひとしおだった。
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複数の辞書を愛用した。
用例の豊富なもの、語源に詳しいもの。
それでも片付かないことばに出会う。
そんなときはそのことばの部分を空白にして、頭をリセットしてゼロから考えてみる。
対応する日本語が思い浮かべばしめたものだが、なかなかそうはいかず、時間だけが過ぎる。
そんなことが許される無限の時間があった。
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いつの間にか翻訳の真似事みたいなこと(こちらも)を始めた。
知らないことばや用例が頻出する。
短い記事でも日本語にするには四苦八苦する。
技術ジャーゴン、俗語卑語の類い、書き手の心に浮かんだ様々な思い・・・とてもド素人の手には負えない。
これまで最大の誤訳例は「bullshit」だろう。今でもそのまま(追記2「bullshit」)晒してある。
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対処方法は二つ。
間違いを承知でムリヤリ日本語にする。
眼光鋭い読者から直ちにチェックが入る。そして読者の指摘はほとんどの場合正しい。
もうひとつは分からないことばを[?]をつけてそのまま残しておく。
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そうはいっても[?]だらけでは仕方ないので、必死に調べる。
オンライン辞書もいろいろ試したが、結局紙の辞書と同じで限界があった。
いつしかインターネットそのものが辞書になった。
インターネットでググる。
辞書が弱い技術ジャーゴンや俗語卑語の類いも、いくらでも用例付きで見つかる。
正解とまではいかなくても、ヒントになりそうなものもいろいろ見つかる。
外国のものを読むのにインターネットが欠かせなくなった。
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インターネットは辞書というより、大きな思考マシンのイメージだろうか・・・
人間の書いた物すべてを読み取り蓄積した大きな頭脳マシン。人類の叡智が蓄積された世界だ。
そんな思考マシンに無数に生えた触手のひとつを自分の脳につなぐ。
頭脳マシンに蓄積された世界の中にことばや用例を探す。
そんな世界にひたすら浸るようになった。
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いろいろ想像せずとも、すべてが具体的用例として検索できる。
いつしか翻訳作業も、どれが一番ピッタリする用例かという選択の作業に変わっていった。
便利になった分、自分の頭で考える機会は減った。
未知のことばを自分の中で反芻して、あれやこれやと読み解くことはほとんどなくなった。
ひとつのことばに触発されて頭の中に広がる未知の世界。
自ら消化し得ないものを読み解くよろこび。
頭脳の奥襞にかすかな揺らめきが走る瞬間・・・
無限の時間の中で感じた揺らめきへの憧憬。
自分だけに許されていた、そんなよろこびとは無縁になっていた。
これが進歩というものだろうか。
インターネットを知らなかったころの自分が懐かしい・・・
“I MISS MY PRE-INTERNET BRAIN”
[via parislemon]

本当に敬愛。私も長年の留学等の経験はありませんが、このブログの翻訳は上記のように心底、そのような努力をされていると感じておりました。
そのように翻訳するときはこのような日本人にどのように伝えるべきか、英語と訳文を参照させながら、いつも感心させられておりました。
私もいつも感心、感銘をもって読ませて頂いています。
私は、記事の選び方も、訳語の選び方も含め、訳者のお人柄がにじみ出るような文章が大好きで、いつも楽しみに読ませていただいています。
今回のミソは、brain を「自分」と訳したところでしょうか。
私的に妄想してみますと、brain はむしろ「脳」と直訳した方がピンと来るような気がしました。自分の脳がネット上の広大な情報空間に溶け込んでいるような感覚を持つ一方、だからこそ自分の脳が退化しているような感覚を覚えてしまい、果たしてそれは進歩と言っていいのだろうか、というような微妙な感覚が、ネット以前の自分の「脳」を懐かしむという表現になっているのではないか、なんて。でも、やはり「自分の脳が懐かしい」では味気ないですかね。
余談ですが、「miss=懐かしい」という語を見ると、Do You Know What It Means To Miss New Orleans? という曲を思い出します。北村英治さんのクラリネットのバージョンが最高です。
> む さん
長年の読者から 温かいコメントをいただけて うれしいです
こんな個人の営為が続いているのも 読者の存在が常にあるからだと思います
訳なんかするのは 読んだもののほんの一部です
ざっと目を通したり 耳で聞いて(目が悪いので 読み上げ機能を使うことが 最近ではほとんどですが) 分かったと思ったものでも いざ日本語に置き換えようとすると あれもこれも分かっていなかったのだなあ と思うことしばしばです
訳するという行為は 自分が理解したのはこういうことだった という確認行為にすぎないのかもしれません
だとすれば 読む人の数だけ 訳はあってもいいのかも・・・