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2008年12月のアーカイブ

[水村美苗氏]
久しぶりに夢中になって本を読んだ。
水村美苗氏の『日本語が亡びるとき:英語の世紀の中で』(筑摩書房)・・・
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海外の記事を読んだり探したりしていると、英語と日本語ではアクセスできる情報量に圧倒的差があることを痛感する。
それは英語がインターネットの「共通語」であることの証しにほかならない。水村氏は英語が〈普遍語〉だからだと表現する。
インターネットを利用するときだけではない。インターネットそのものについて語るときも英語が重要なのだ。
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英語はインターネットの〈普遍語〉
 自動翻訳機の質がいくらよくなろうと、インターネットの登場によって英語がますます〈普遍語〉として流通していくのを押しとどめられるものではない。
 しかも、すでに英語は――数学という人工言語を別にすれば――インターネットの技術そのものにかんしての〈普遍語〉である。インターネットは世界で英語が〈普遍語〉として流通するのを強化する技術だが、そのインターネットという技術にかんしてのメタ言語も、英語という言葉なのである。世界中の人々はインターネットについて語るとき英語を使う。
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英語で書かれたものはそれだけで世界に通じるが、日本語で書かれたものはそうはいかない。それが〈普遍語〉であるということの意味だ。
ことは日本語にとどまらない。かつて宮廷や外交の言語として栄華を誇ったフランス語ですら日本語と同じ運命をたどっている。
本書にはパリでなされた興味深い講演が挿入されている。ある意味で本書のテーマはここに尽きている。
フランス語でなされたこの講演はいかにもことばを大切にする小説家らしい表現で語られている。(フランス語、日本語とも水村氏による。)
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「なんというおちぶれかた!」
 さて、ここで、思い切って言ってしまおう。
 Ce qui nous amène à ceci.
 きょうび、フランス語で書く小説家たち。かれらのことを思うと、同情に堪えません。いや、この際、思い切って、正直に告白せねばならぬ・・・。かれらのことを思うと、実は、内心、隠微な歓びに満ち溢れてしまうのです。なぜなら、今や、かれらのような御方がたが私の仲間入りをして下さった歓びがあるからです。
 Je suis remplie de sympathie quand je pense aux écrivains français d’aujourd’hui. Ou, peut-être, faut-il que je sois plus honnête et avouer que je suis plutôt enchantée. Parce que je peux maintenant jouir de leur compagnie.
 私はかれらに申し上げるでしょう。
 「まあ、ようこそ、いらっしゃいました。ようこそ、私と同じ側へと――例のあの非対称な関係のなかで、ようこそ、私と同じ側へといらっしゃいました。以前、あなたがたは、私とは反対側の、特権的な側にいらっしゃいました。いいえ。あなたがたは、その特権的な側にいらしただけではない。あなたがたの過去の栄光によって、しばしばその特権的な側の象徴そのものですらあったのです。それなのに、ああ、あなたがたは、今やお気の毒なことに、私と同じ陣営にお入りにならざるをえなくなったのです。あなたがたも、やはり、二つの時間を生きざるをえなくなったのです。英語で書かれたものに流れる普遍的な時間と、あなたがたご自身の言葉で書かれたものに流れる特殊な時間です。世界の人たちと同様、あなたがたも、普遍的な時間の中で話す人たちの声は、かんたんに聞くことができます。でも、もうあなたがたご自身の声を世界の人たちにかんたんに届かせることはできないのです」・・・
 Je leur dirais: “Bienvenue – bienvenue de mon côté de l’asymétrie.
 Vous apparteniez jadis à l’autre [...]

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